鹽竈神社の御由緒

当社は古くから東北鎮護・陸奥国一之宮として、朝廷を始め庶民の崇敬を集めて今日に至りました。

当神社創建の年代は詳らかではありませんが、平安時代初期、嵯峨天皇の御代に編纂された「弘仁式」に「鹽竈神を祭る料壱万束」と記され、厚い祭祀料を授かっていたことが知られます。つまり、奈良時代国府と鎮守府を兼ねた多賀城が当神社の西南5km余の小高い丘(現在の多賀城市市川)に設けられ、その精神的支えとなって信仰されたと考えられます。

武家社会となってからは平泉の藤原氏・鎌倉幕府の留守職であった伊沢氏、そして特に伊達氏の崇敬が厚く、歴代藩主は大神主として務めてまいりました。現在の社殿は伊達家四代綱村公から五代吉村公に亘り9年の歳月をかけ宝永元年(1704)竣工されたものです。江戸時代以降は「式年遷宮の制」が行なわれ、氏子・崇敬者各位の赤誠により平成23年には第十八回の式年遷宮本殿遷座祭が斎行されました。

平成14年12月、本殿・拝殿・四足門(唐門)・廻廊・随神門以下14棟と、石鳥居1基が、国の重要文化財の指定を受けました。

  • 左右宮拝殿

    唐門をはいって正面の社殿。左宮に武甕槌神(たけみかづちのかみ)・右宮に経津主神(ふつぬしのかみ)を守る。左右宮は権力者に崇められた武神であった。

  • 別宮拝殿

    左右宮の右手に主祭神である鹽土老翁神(しおつちおぢのかみ)を別宮で祀(まつ)る。別宮は塩の神・安産の神として庶民の信仰を集めてきた。

境内外の末社

境内には、神明社、八幡社、住吉社、稲荷社、また市内本町にはご祭神が塩を作ることを教えられたと伝わる御釜神社・牛石藤鞭社、新浜町には和歌の名所として知られる籬島に曲木神社をお祀りしています。

歴史

歴史御祭神社殿信仰都人の憧憬

鹽竈神社の創建年代は明らかではありませんが、その起源は奈良時代以前にります。平安時代初期(820)に編纂された『弘仁式』主税帳逸文には「鹽竈神を祭る料壱萬束」とあり、これが文献に現れた初見とされています。当時陸奥国運営のための財源に充てられていた正税が六十萬三千束の時代ですから、地方税の60分の1という破格の祭祀料を受けていた事が伺われます。しかし全国の各社を記載した『延喜式』(927年完成)の神名帳にはその名が無く、鹽竈神社は「式外社」ではありましたが中世以降、東北鎮護・海上守護の陸奥國一宮として重んじられ、奥州藤原氏や中世武家領主より厚い信仰を寄せられてきました。特に江戸時代にはいると伊達家の尊崇殊の外厚く、伊達政宗以降歴代の藩主は全て大神主として奉仕してまいりました。よって江戸時代の鹽竈神社には歴代の宮司家が存在せず、実質祭祀を行っていた禰宜家がおりました。

鹽竈神社が発展してきた大きな要因に鎮守府としての国府多賀城の存在が考えられます。

多賀城の地に国府が置かれると、その東北方向つまり「鬼門」に位置し、蝦夷の地に接していた当社が国府の守護と蝦夷地平定の精神的支えとして都から赴任してきた政府の人々に篤く信仰されたものと考えられます。

その流れが今度は武家社会に入ると陸奥國総鎮守として一層尊崇を集めてきたものでしょう。

歴史の謎

鹽竈神社は祭祀料として正税壱万束を受けていた事は前述しましたが、当時全国で祭祀料を寄せられていたのは、他に伊豆国三島社二千束、出羽国月山大物忌社二千束、淡路国大和大国魂社八百束の三社で共に『式内社』でありますが当社に比べ格段の差があり、国家的に篤い信仰を受けていたにも拘わらず『延喜式』神名帳にも記載されず、その後も神位勲等の奉授をうけられていないというこの相反する処遇はどう解すべきなのでしょうか。

御祭神

歴史御祭神社殿信仰都人の憧憬

鹽竈神社の御祭神は別宮に主祭神たる塩土老翁神・左宮に武甕槌神・右宮に経津主神をお祀りしておりますが、江戸時代以前はあまり判然とせず諸説があった様です。陸奥國最大の社として中古より崇敬された神社の御祭神がはっきりしないのは奇異な感じがしますが、呼称も鹽竈宮・鹽竈明神・鹽竈六所明神・或いは三社の神など様々あった様です。そこで伊達家4代綱村公は社殿の造営に際し、当時の名だたる学者を集めて研究せしめ現在の三神とし、又現在の別宮の地にあった貴船社と只州(糺)宮は現在の仙台市泉区の古内に遷座されました。

鹽土老翁神は『古事記』『日本書紀』の海幸彦・山幸彦の説話に、釣り針を失くして困っていた山幸彦に目無籠(隙間のない籠)の船を与えワダツミの宮へ案内した事で有名ですが、一方博識の神としても登場しています。

武甕槌神(茨城県鹿島神宮主祭神)・経津主神(千葉県香取神宮主祭神)は共に高天の原随一の武の神として国譲りに登場し、国土平定の業をなした神です。社伝によれば、東北地方を平定する役目を担った鹿島・香取の神を道案内されたのが鹽土老翁神の神であり、一説には神々は海路を亘り、七ヶ浜町花渕浜(現在の鼻節神社付近)からこの地に上陸されたと言われ、又鹽土老翁神はシャチに乗って海路を渡ってきたと言う伝えもあります。

やがて鹿島・香取の神は役目を果たし元の宮へ戻りましたが、鹽土老翁神は塩釜の地に残り、人々に製塩法を教えたとされています。塩釜の地名の起こりともなっております。

御祭神の伝承の異説

日本を代表する古社、奈良県の春日大社の縁起を伝える『春日権現験記』(1309)によりますと武甕槌神は陸奥国塩竈浦に天降り、やがて鹿島に遷ったとされる注目すべき記述があります。

社殿

歴史御祭神社殿信仰都人の憧憬

鹽竈神社の社殿は幾度となく造営されてきた様ですが、残念ながら中世以前の境内の様子を伝える資料は現存しておりません。

現社殿はこの元禄期のもので元禄8年(1695)から9年の歳月をかけ宝永元年(1704)に竣功しました。平成16年で丁度300年を経た建物です。寛文の御造営からわずか30年程で大規模な御造営を為した背景には、謡曲やドラマで有名な寛文事件(伊達騒動)があり、綱村(幼名亀千代)はこの騒動で毒殺されかけ、わずか2歳で伊達家を継ぐ事になります。長じて17歳で仙台の地に戻った綱村は、自分の命と伊達家が続いたのは神仏の加護によるものと一層信心を厚くし、その証として大規模な造営に着手したとされています。

幕府から日光東照宮の改修を命ぜられた綱村は自らも現地に赴くなどして力を注ぎ、その事業が済むとその職人を呼び寄せ鹽竈神社の社殿以下の造営を行いました。建物の様式や彫刻は東照宮のそれと大変よく似ているのはそのためです。

本殿は素木造檜皮葺の三間社流造り、一方の拝殿は朱漆塗銅板葺入母屋造と好対照を見せており、又別宮は本殿一棟に拝殿一棟、左右宮は本殿二棟に拝殿一棟と特徴的な造りとなっております。
この御造営以後鹽竈神社には伊勢の神宮と同じく二十年毎の式年遷宮(社殿の建て替えや修理をし更新する制度)が定められ、屋根替えや社殿の補修、漆の塗り替えや金具・調度品の修復等が行われ、平成23年に第18回式年遷宮が行われました。

平成14年12月に本殿・拝殿・四足門(唐門)・廻廊・随神門(楼門)以下14棟と石鳥居1基が国の重要文化財の指定を受けております。

社殿の不思議

◇通常の神社は鳥居ないし門を入った正面に主祭神を祀っておりますが、鹽竈神社は正面に左右宮(鹿島・香取の神)が南向きに、門を入って右手に主祭神たる塩土老翁神を祀る別宮が松島湾を背に西向きに立っております。
→これは伊達家の守護神たる鹿島・香取の神を仙台城の方角に向けて建て、大神主たる藩主が城から遙拝出来る様に配し、海上守護の塩土老翁神には海難を背負って頂くよう海に背を向けているとも言われております。

◇主祭神を祀る宮がなぜ別宮というのでしょう。
→この別とはメインに対するサブやセカンドという2番目の意味ではなく、特別(スペシャル)な社と言う意味です。

◇通常社殿は本殿を最重要に荘厳に造るのが通常なのに、鹽竈神社は本殿は素木なのに対して拝殿が総漆塗なのはなぜでしょう。
→本殿が素木なのは全国の著名な神社の造りに沿ったものと思われます。特に鹽竈神社の本殿の様式である三間社流造はその代表である京都の賀茂社を参考にしたとされています。
一方拝殿については、朱の色に魔除けの意味があるという考えも出来ますが江戸時代、鹽竈神社には神宮寺(神社を護る為の寺)たる法蓮寺があり、僧侶が塗りの拝殿で読経を、神職が本殿で祝詞を奏されていた為、僧侶の立ち入れる場所と神職の奉仕する場所を区分する為に分けたとされています。

◇別宮拝殿は丸柱・左右宮拝殿は角柱なのは何故でしょう。
→元禄の御造営では全てが建て直された訳ではありません。両本殿は新築されました が左右宮拝殿は、それまでの拝殿を改造し再利用し、別宮拝殿は、それまでの本殿を移 築・改造して用いました。そのため間取りや柱が左右宮のそれとは違っているので す。左右宮本殿として残っている資料の寸法・間取りと現別宮拝殿のものとはぴった り一致している事も調査で明らかでこの説を裏付けています。

◇元禄の造営が9年もかかったのは何故
→伊達家4代綱村が造営事業を計画し実行しようとした時期、折り悪しくも領内は天候不順による不作が続き、中断せざるを得なかった様です。更に仮殿が火災に遭う(御神体は無事だった)という大事件があり、45歳で隠居した綱村の代では完成を見ず、次代吉村に引き継いで竣工しました。その為9年の歳月を要しました。

信仰

歴史御祭神社殿信仰都人の憧憬

鹽土老翁神は古くより航海・潮の満ち引き・海の成分を司る神、左右宮の御祭神は武運・国土平定の神として信仰されて来ました。

そこから海上安全・大漁満足・武運長久・国家安泰の信仰は早くからありましたが、やがて人の生死は潮の満ち引きに深い関係があり、又海が産みに通じるところから安産守護・延命長寿、また別宮の祭神は無事道案内をされ、左右宮の祭神は東北平定を終え凱旋(無事還った)した事から交通安全、必勝・成功(商売や営業の繁昌)等の信仰が盛んとなりました。更に当社が多賀城の鬼門の守護神であった事から厄除け・方除けの信仰も盛んとなりました。

しかし地元の方々はどんな祈願もすべて「しおがまさま」へと足を運びます。

都人の憧憬

歴史御祭神社殿信仰都人の憧憬

京から離れる事1500里、まさに道の果て辺境の地であったこの地に国府多賀城の将として赴任してきた都人は、その美しさと珍しさに大いに詩情を抱き、また旅する人も少なくこの地の様子を語れる人も希であり、ますます都の人々の憧憬は膨らんみました。その為多くの歌が詠まれました。

・みちのくは いずくはあれど

塩竈の うらこぐ舟の 綱手かなしも (古今和歌集・東歌)

・陸奥の ちがの塩竈 ちか乍ら

遙けくのみも 思ほゆる哉 (古今和歌集・六帖)

・塩がまの 浦ふくかぜに 霧晴て

八十島かけて すめる月影 (千載集・藤原清輔朝臣)

・見し人の けふりとなりし ゆうべより

名もむつまじき 塩がまの浦 (新古今集・紫式部)

・ちかの浦に 踏違えたる 浜千鳥

思わぬ跡を 見しぞ嬉しき (清輔朝臣集)

・されば 汐かぜこして みちのくの

野田の玉川 千鳥鳴くなり (新古今集・能因法師)

       

この他にも「まがき島」を題材にして詠まれた歌も伝わっています。
→曲木神社由緒参照

当時の塩竈とは今の塩竈松島一帯を指しておりました。そしてこのみちのくのイメージは西行を経て松尾芭蕉の『奥の細道』で日本人に定着することとなります。

芭蕉は多賀城・鹽竈神社を経て曲木島を見、最大の目的であった松島の景色に感動し一句も読めなかった事は周知の事でしょう。

時代は前後しますが、忘れてはならないのは河原の左大臣と称された源朝臣融で謡曲『融』の主人公にもなりましたが、その別荘の一つが後の宇治平等院、一つは洛北嵯峨の現棲霞寺となっています。融は陸奥出羽按察使に任ぜられています(『三代実録』)が実際に赴任したかどうかは不詳です。しかし塩竈の浦に深く心を寄せ鴨川の辺に六条河原院を建て、『伊勢物語』に庭に塩竈の景色を再現して毎日難波より海水を汲ませてこれを焼かせつつ生涯を楽しんだことが見えます。今もこの付近には塩竈の地名が名残として残っております。