志波彦神社の御由緒
History of Shiwahiko Shrine
七北田川(冠川)が流れる今の仙台市宮城野区岩切―かつての陸奥国宮城郡岩切村は、東山道から東へ進み陸奥国の国府である多賀城へ通じる交通の要所でした。
その冠川の畔に鎮座していた志波彦神社は、律令時代に国の祭祀に預かった官社(式内社)であり、さらに格別の御神徳から「名神祭」の奉幣も受けた「延喜式内名神大社」として律令時代以降も尊ばれてきました。御祭神の志波彦大神は、国土の開発と殖産の御神徳をもって鹽竈神社の三神に御助力された神と伝えられ、現在も農耕・産業開発の守護神として広く信仰されています。
上記の由緒から、明治4年(1871)には国幣中社に列格。しかし当時志波彦神社は、長い歴史のなかで境内・社殿が衰微していたようで、(国幣社としての)初代宮司落合直亮の申立書に「社地ノ儀、元来僻陬ノ郷土ニテ(中略)堂宮等至テ麁略」であり、祭典の執行に差し障りがある旨が言葉を尽くして記されています。
落合宮司らの再三にわたる建議の結果、志波彦神社を同じ宮城郡に鎮座する「奥州一宮」鹽竈神社の境内へ遷し奉り御両社併せて奉祀することとし、遷祀にあたっては鹽竈神社も国幣中社とすることが決定します。時に明治7年12月5日、太政大臣三條実美名での達でした。
達をうけ、宮城県権令宮城時亮が使として参向し、まず同年12月23日鹽竈神社で国幣中社列格の奉告祭が斎行されます。さらに翌24日に岩切の志波彦神社において遷座奉告祭、つづいて遷座祭を斎行し旧殿より出御された志波彦神は塩竈の地まで渡御、鹽竈神社別宮にお鎮まりになりました。節も歳末、明くる明治8年の元朝は氏子崇敬者にとってもい神職にとっても輝かしい年始であったろうと想像されます。
以降、当社は一つ境内に「志波彦神社鹽竈神社」をお祀りし、神職も御両社にお仕えすることとなりましたが、遷座祭の祝詞にも「新宮造竟テ鎮メ奉ラム日マデ鹽竈神社ノ御殿ノ内ニ遷シ坐セ奉ラム」と記されている通り、別宮での奉祀は境内に神殿を建てるまでの仮の措置であり、以降新宮の造営は歴代宮司の宿願でした。国の予算承認を得、その新宮が国費をもって造営・竣工されたのは下って昭和13年。近代神社建築の粋を結集して造られた志波彦神社社殿は、総体を漆塗とし、装飾に豊かな彩色が施された荘厳な造りとなっており、昭和38年に塩竈市文化財の第1号に指定されました。
