鹽竈神社の御由緒
History of Shiogama Shrine
塩竈は古くから拓かれた港のまちで、風光明媚な歌枕の名所としても知られてきました。その町並みを見守るようにして一森山の小高い頂に鎮座する鹽竈神社は、別宮に塩土老翁神、左宮に武甕槌神、右宮に経津主神の三柱の神をお祀りする古いお社で、塩竈の地名もその社名に由来するとされています。
鹽竈神社および鹽竈大神を対象とする信仰は広範にわたるもので、たとえば「鹽竈」を社名に冠し、あるいは御祭神を同じくするお社は全国各地に分布しています。伝承によれば、塩土老翁神を先導として武甕槌神と経津主神が塩竈に下り、陸奥国を平定してのち凱旋してこの地に祀られ、武甕槌神・経津主神の二神はそれぞれ常陸国(鹿島神宮)、下総国(香取神宮)へとお遷りになり、さらに奈良国の三笠山(春日大社)に鎮まられたとされています。塩土老翁神は塩竈の地に留まり人々に塩づくりを教えられたと伝えられます。
公的な記録では、平安時代初期に編纂された律令の施行細則『弘仁式』巻25主税式に「鹽竈神ヲ祭ル料壹萬束」と記されているものが最も古く、当時陸奥国から厚い祭祀料を受けていたことが分かります。以降も国司をはじめ武家による崇敬を集め、また海事や塩業の神として広く信仰され、人の出生が潮の干満と関わり深いとされることから安産の守護神としても慕われてきました。
特に近世江戸時代、仙台藩伊達家の代々藩主は、社殿を造営し太刀・武具等を奉納するなど厚く信仰を寄せ、のみならず自ら「大神主」として鹽竈神社の祭祀を司りました。
御社殿は創建来、諸侯らの寄進により幾度も修復・造営がなされましたが、現在の建築は、仙台藩4代藩主伊達綱村公の時代、元禄年間に造営に着手し、5代藩主吉村公の宝永元年(1704)に竣工したものです。三柱の御祭神ごとに設けられた別宮・左宮・右宮の3本殿、別宮・左右宮の両拝殿、以下14棟と、表参道下の石鳥居1基を加えた建築群は国の重要文化財に指定されています。宝永以降、鹽竈神社の社殿は仙台藩によってほぼ20年間隔で修復がなされました。修復の中心は本殿の御屋根の葺き替え工事ですが、工事に際して御祭神の一時的な遷座を伴うことから遷宮と称されてきました。現存する棟札によれば、享保12年(1727)から文久2年(1862)まで、近世を通じて8度の遷宮が執り行われています。この事業は近代以降も明治・大正・昭和・平成と受け継がれており、来る令和13年には第19回鹽竈神社式年遷宮が予定されております。
